倶利伽羅峠、大軍を峠で崩す
歴史事件
木曽で育った木曽義仲は、養父・中原兼遠とともに1166年、13歳でこの地(旗挙八幡宮)にて元服した。それから14年後の1180年、以仁王の令旨を受けた義仲は、千余騎を率いてこの社で平家打倒の旗挙をしたと伝わる。境内の大欅は、義仲の元服または旗挙を記念して植えられたとも言われるが、これはあくまで伝承であり、義仲自身が植えたと確定しているわけではない。 旗挙から3年後の1183年、義仲は倶利伽羅峠(現在の富山・石川県境)で平維盛率いる平家の大軍と対峙する。軍記物語が伝える兵力は平家軍数万騎・義仲軍数千騎ともいわれるが、当時の軍記物語の数字は誇張を含むことが多く、実数として確定はできない。確かなのは、義仲が兵力で劣勢だったにもかかわらず、山中の峠という狭く見通しの利かない地形を戦場に選んだことだ。大軍は広い平地でこそ数の力を発揮できるが、峠のような隘路では一部の兵しか同時に戦えず、むしろ身動きが取れなくなる。義仲は夜を待ってこの弱点を突いた。 角に松明を付けた牛の群れを平家の陣に放ったという「火牛の計」は、後世の軍記物語『源平盛衰記』などに描かれた有名な逸話だが、史実として確定しているわけではない。この戦いの核心は牛そのものではなく、大軍を大軍のまま戦わせない地形の使い方にある。混乱した平家軍は谷へ追い落とされて壊滅し、義仲はそのまま京都へ進軍することになる。
登場人物
木曽義仲
見るスポット
旗挙八幡宮
見る旅の物語