信州が生んだ軍略家たち
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信州が生んだ軍略家たち

木曽義仲と真田昌幸――大軍を破った、二人の軍略

戦では、兵の数が多い方が勝つ。本当にそうだろうか。信州は、その常識を覆した二人の武将を生んだ土地だ。平安末期、木曽の山あいで育った木曽義仲は、倶利伽羅峠で平家の大軍を打ち破った。それから約400年後、同じ信州で、真田昌幸が上田城に拠って二度にわたり徳川の大軍を退けた。時代も相手も違う二人だが、どちらも大軍を大軍のまま戦わせなかった点で共通している。山・峠・川・城下町――信州の地形をたどりながら、二人の軍略に迫る旅へ出かけよう。

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スポット数
2箇所
移動距離(概算)
約83.4km
スタート地点
旗挙八幡宮
ゴール地点
上田城
旗挙八幡宮

旗挙八幡宮

長野県木曽町日義2150

木曽義仲が13歳で元服し、1180年に平家打倒の兵を挙げたと伝わる神社。境内には義仲の時代から生き続けるとも言われる大欅(推定樹齢800年以上)がそびえ、山あいの参道が往時の面影を伝える。

旅の始まりは、木曽・旗挙八幡宮。ここで元服し、ここで平家打倒の旗を挙げたと伝わる木曽義仲は、3年後、倶利伽羅峠で平家の大軍を打ち破ることになる。少ない兵力で大軍に挑んだ、その原点をたどってみよう。

倶利伽羅峠、大軍を峠で崩す

木曽で育った木曽義仲は、養父・中原兼遠とともに1166年、13歳でこの地(旗挙八幡宮)にて元服した。それから14年後の1180年、以仁王の令旨を受けた義仲は、千余騎を率いてこの社で平家打倒の旗挙をしたと伝わる。境内の大欅は、義仲の元服または旗挙を記念して植えられたとも言われるが、これはあくまで伝承であり、義仲自身が植えたと確定しているわけではない。 旗挙から3年後の1183年、義仲は倶利伽羅峠(現在の富山・石川県境)で平維盛率いる平家の大軍と対峙する。軍記物語が伝える兵力は平家軍数万騎・義仲軍数千騎ともいわれるが、当時の軍記物語の数字は誇張を含むことが多く、実数として確定はできない。確かなのは、義仲が兵力で劣勢だったにもかかわらず、山中の峠という狭く見通しの利かない地形を戦場に選んだことだ。大軍は広い平地でこそ数の力を発揮できるが、峠のような隘路では一部の兵しか同時に戦えず、むしろ身動きが取れなくなる。義仲は夜を待ってこの弱点を突いた。 角に松明を付けた牛の群れを平家の陣に放ったという「火牛の計」は、後世の軍記物語『源平盛衰記』などに描かれた有名な逸話だが、史実として確定しているわけではない。この戦いの核心は牛そのものではなく、大軍を大軍のまま戦わせない地形の使い方にある。混乱した平家軍は谷へ追い落とされて壊滅し、義仲はそのまま京都へ進軍することになる。

登場人物: 木曽義仲

次は上田城へ — 少し距離があります(直線距離約83.4km)。電車やバスの利用がおすすめです

上田城

上田城

長野県上田市二の丸

真田昌幸が1583年に築いた平城。現存する東虎口櫓門などは江戸時代に仙石氏が再建したもので、昌幸当時の建物がそのまま残っているわけではない。千曲川沿いの断崖・尼ヶ淵を天然の堀とした立地に、二度にわたり徳川の大軍を退けた城の実力を感じられる。

旗挙八幡宮を離れ、舞台は一気に約400年後へ跳ぶ。同じ信州で、再び大軍を前にした武将がいた――上田城に拠った真田昌幸である。地形を利用して大軍を崩すという義仲の軍略は、時代を超えてこの地でもう一度姿を見せる。

上田城、二度の大軍撃退

それから約400年、同じ信州で、再び大軍を相手にする武将が現れる。真田昌幸である。1583年、昌幸は千曲川とその支流が作る河岸段丘の突端に上田城を築いた。南は千曲川沿いの断崖・尼ヶ淵が天然の堀となり、北と西は矢出沢川が外堀の役目を果たす。大掛かりな普請をせずとも、地形そのものが城を守る要害だった。 その守りが最初に試されたのが、1585年の第一次上田合戦である。徳川方は鳥居元忠らが率いる約7,000の兵で北国街道から上田へ進軍したのに対し、上田城を守る真田方は約2,000と伝わる。数のうえでは徳川方が圧倒的に有利だった。だが昌幸は、徳川軍が神川を渡ったところで奇襲をかけ、あえて退くふりをして城下町へ誘い込んだ。城下に火を放ち、周辺の百姓にまで旗を立てさせて大軍に囲まれたと錯覚させたため、徳川軍は混乱に陥って撤退。退却の途中、真田方の別働隊に側面を突かれ、増水した神川に追い落とされる者も出た。城だけでなく、城下町・河川・周辺の地形までを戦場として使い切った戦いだったといえる。 この経験は偶然ではなかったことが、15年後の1600年、第二次上田合戦で証明される。関ヶ原の戦いに際し、昌幸は東軍についた長男・信之と袂を分かち、自身と次男・信繁(のちの真田幸村)は西軍として上田城に立てこもった。徳川秀忠率いる大軍を城下深くまで引き寄せて集中攻撃を浴びせ、約5日間にわたり足止めする。この足止めが響き、秀忠軍は天候の悪化も重なって関ヶ原の本戦(同年9月15日)に間に合わなかった。上田城での5日間が、天下分け目の戦いの結果そのものを左右したとまでは断定できないが、少なくとも徳川方にとって無視できない痛手になったことは確かである。

登場人物: 真田昌幸

大軍を、大軍のまま戦わせない。

旗挙八幡宮から上田城へ。約400年の時を隔てた二人の武将が選んだのは、力で押し返すことではなく、山・峠・川・城下町という信州の地形を味方につけることだった。二人の軍略をたどると、この土地の地形そのものが、もう一つの武器だったことが見えてくる。

  1. 旗挙八幡宮、義仲の原点 旗挙八幡宮
  2. 上田城、もう一人の軍略家 上田城
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