黒船が来る前から、島津斉彬は動いていた

人物史

仙巌園そのものは、斉彬が作った庭園ではない。1658年、義弘の孫にあたる第19代当主・光久が築いた島津家の別邸で、桜島を築山、錦江湾を池に見立てた庭園として、斉彬の時代にはすでに200年近い歴史を持っていた。斉彬が手がけたのは、この別邸の裏手である。 お由羅騒動と呼ばれる家督争いを経て、嘉永4年(1851年)、42歳で第11代薩摩藩主となった斉彬は、就任からほどなく西洋式の産業導入に着手する。きっかけは、アヘン戦争でイギリスが清に圧勝したという報せだった。西洋列強がアジアへ進出する現実を知った斉彬は、強い危機感を抱いたとされる。そして嘉永5年(1852年)冬、黒船来航(1853年)よりも前に、仙巌園の裏手で反射炉の建設に着手した。 反射炉・溶鉱炉に加え、紡績・ガラス製造・ガス灯など、斉彬が興した工場群は「集成館」と総称され、最盛期には約1,200人が働く規模にまで成長したという。蒸気船の実物を一度も見ないまま、外国の書物の図面だけを頼りに建造させたという逸話も伝わる。黒船という目に見える危機が訪れてから慌てて動いたのではなく、まだ遠い出来事だった段階で、先回りして手を打っていたことになる。 斉彬は技術だけでなく、人の使い方にも同じ判断力を見せた。身分の低い家柄であっても、西郷隆盛や大久保利通のような有為な若者を積極的に登用し、重要な役目を任せている。のちにこの二人は明治維新の中心人物になった。斉彬自身が藩主だった期間はわずか7年、安政5年(1858年)に50歳で急逝する(当時流行していたコレラが有力な死因とされる)。それでも、彼がこの地で育てた技術と人材は、その死後に起きた明治維新へとつながっていった。

登場人物

島津斉彬

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スポット

仙巌園

仙巌園

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