島津家は、なぜ「暗君なし」と言われるのか
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島津家は、なぜ「暗君なし」と言われるのか

島津義弘と島津斉彬――二人の「らしくない」決断を、伊作城跡と仙巌園にたどる

「島津に暗君なし」。鹿児島ではよく聞かれる言葉だが、調べてみると、誰がいつ言い始めたのか、はっきりした出典は見当たらない。学術的に確立した評価というより、長い時間をかけて語り継がれてきた、通俗的な評判に近いものらしい。 では、この言葉を鵜呑みにせず、実際の決断の中身を見てみたらどうだろうか。戦国時代、関ヶ原で敗色濃厚な戦場から、島津義弘は後退ではなく敵中突破を選んだ。それから約250年後、幕末の薩摩藩主・島津斉彬は、黒船来航という目に見える危機が訪れる前、アヘン戦争の報せだけを頼りに西洋技術の導入を急いだ。時代も、戦い方も、まるで違う二人だが、どちらも「普通の選択」をしなかったという点では共通している。 義弘が生まれた伊作城跡、そして斉彬が工業化の舞台にした仙巌園。二つの実在する場所を歩きながら、「島津に暗君なし」という言葉の実像に迫る旅に出かけよう。

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スポット数
2箇所
移動距離(概算)
約22.7km
スタート地点
伊作城跡
ゴール地点
仙巌園
伊作城跡

伊作城跡

鹿児島県日置市吹上町中原3524

南北朝時代に築かれた伊作氏の居城跡。島津家中興の祖・忠良(日新斎)を輩出し、その孫にあたる島津義弘ら四兄弟全員がこの城で生まれたと伝わる。主郭「亀丸城」には四兄弟の誕生石が現存し、30近い曲輪と深い空堀が、中世山城としての規模を今に伝える。整備された遊歩道で歩きやすく、所要時間の目安は約1時間。

旅の始まりは、鹿児島市街から車で1時間弱、日置市にある伊作城跡。南北朝時代に築かれたこの山城で、戦国時代の島津家を支えた四兄弟――義久・義弘・歳久・家久――が生まれた。中でも義弘は、後に「鬼島津」と恐れられる武将へと成長していく。まずはこの場所で、島津家の血脈がどこから始まったのかを確かめよう。

伊作城に生まれ、関ヶ原を駆け抜けた男

天文4年(1535年)、島津義弘はこの伊作城で、島津家15代当主・貴久の次男として生まれた。主郭「亀丸城」に残る誕生石は、義弘だけでなく、兄の義久、弟の歳久・家久、島津四兄弟全員の生誕を伝える。この四兄弟が力を合わせて戦国期の九州統一戦を戦い抜いたことが、後の島津家の基盤になった。 義弘の名が最も広く知られるのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いだろう。この戦いに島津家として参戦したのは義弘で、本家当主である兄・義久は参加していない。西軍に属したものの他の西軍諸将との連携はうまくいかず、島津勢はほとんど戦わないまま、戦況は東軍優勢で決した。 ここから起きたのが、のちに「島津の退き口」と呼ばれる撤退である。戦場に取り残された島津勢にとって定石は、戦線の後方、つまり敵から離れる方向へ退くことだった。しかし義弘が選んだのは、徳川家康の本陣に向かって敵中を正面から突っ切るという、前代未聞の退路だった。兵力や生還者の数は史料によって幅があり(布陣時1,000〜1,500人程度、生還者はおよそ80人という記録もあるが、いずれも確定した数字ではなく諸説あることに注意したい)、正確な実数は分かっていない。それでも、圧倒的な不利の中で後退ではなく前進を選んだという判断の異様さは、記録に共通している。 この退却では、義弘の甥にあたる島津豊久や、家臣の長寿院盛淳らが、追撃する敵を迎え撃つためにその場に踏みとどまり、命を落とした。身代わりとなって主君を逃がすこの戦法は「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる。多くの家臣の犠牲のうえに、義弘は薩摩への帰還を果たした。 西軍についた島津家は、本来なら改易(取り潰し)されてもおかしくない立場にあった。それでも家は存続した。本家当主・義久が直接参戦していなかったという立場、京や江戸から遠く離れた地理的条件、そして戦後の粘り強い交渉など、複数の要因が重なった結果とされる。この「負けても家を残す」という結果もまた、義弘一人の武勇だけでは語れない、島津家としての判断力の表れだったといえるだろう。

登場人物: 島津義弘

次は仙巌園へ — 少し距離があります(直線距離約22.7km)。電車やバスの利用がおすすめです

仙巌園

仙巌園

鹿児島市吉野町9700-1

1658年、島津家19代当主・光久が築いた島津家別邸。桜島を築山、錦江湾を池に見立てた雄大な庭園として知られる。幕末、第28代当主・島津斉彬はこの地の裏手に反射炉を中心とする集成館事業を興し、日本の近代化に先駆ける工場群を築いた。反射炉跡は世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産で、隣接する尚古集成館で歴史を詳しく学べる。

伊作城跡を後にして、車で1時間弱。舞台は幕末の仙巌園へと移る。義弘の時代から約250年、島津家は戦国の争乱ではなく、海の向こうからやってくる西洋列強という、まったく違う種類の危機に直面していた。この庭園の裏手で、第28代当主・島津斉彬が選んだ答えとは何だったのか。

黒船が来る前から、島津斉彬は動いていた

仙巌園そのものは、斉彬が作った庭園ではない。1658年、義弘の孫にあたる第19代当主・光久が築いた島津家の別邸で、桜島を築山、錦江湾を池に見立てた庭園として、斉彬の時代にはすでに200年近い歴史を持っていた。斉彬が手がけたのは、この別邸の裏手である。 お由羅騒動と呼ばれる家督争いを経て、嘉永4年(1851年)、42歳で第11代薩摩藩主となった斉彬は、就任からほどなく西洋式の産業導入に着手する。きっかけは、アヘン戦争でイギリスが清に圧勝したという報せだった。西洋列強がアジアへ進出する現実を知った斉彬は、強い危機感を抱いたとされる。そして嘉永5年(1852年)冬、黒船来航(1853年)よりも前に、仙巌園の裏手で反射炉の建設に着手した。 反射炉・溶鉱炉に加え、紡績・ガラス製造・ガス灯など、斉彬が興した工場群は「集成館」と総称され、最盛期には約1,200人が働く規模にまで成長したという。蒸気船の実物を一度も見ないまま、外国の書物の図面だけを頼りに建造させたという逸話も伝わる。黒船という目に見える危機が訪れてから慌てて動いたのではなく、まだ遠い出来事だった段階で、先回りして手を打っていたことになる。 斉彬は技術だけでなく、人の使い方にも同じ判断力を見せた。身分の低い家柄であっても、西郷隆盛や大久保利通のような有為な若者を積極的に登用し、重要な役目を任せている。のちにこの二人は明治維新の中心人物になった。斉彬自身が藩主だった期間はわずか7年、安政5年(1858年)に50歳で急逝する(当時流行していたコレラが有力な死因とされる)。それでも、彼がこの地で育てた技術と人材は、その死後に起きた明治維新へとつながっていった。

登場人物: 島津斉彬

常識の外に、答えがあった。

伊作城跡から仙巌園へ。関ヶ原で敵中を突っ切った義弘と、黒船より先に動いた斉彬。二人に共通するのは、人柄でも思想でもなく、「危機の時こそ、普通の選択をしない」という一点だった。「島津に暗君なし」の真偽を歴史が証明してくれるわけではない。それでも、二人の決断の現場に立てば、その言葉が語り継がれてきた理由が、少しだけ分かる気がする。

  1. 伊作城跡、島津の血が始まった場所 伊作城跡
  2. 仙巌園、250年後のもう一つの決断 仙巌園
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