大阪は、なぜ「商人の街」になったのか
難波宮から天下の台所、そして近代都市へ
大阪は、なぜ「商人の街」と呼ばれるようになったのだろうか。古代、遣隋使・遣唐使が行き交った外交の拠点・難波宮から、豊臣秀吉が築いた巨大な城下町、そして「天下の台所」と呼ばれた江戸時代の商業都市を経て、明治の近代化まで。大阪という街が形づくられてきた、2000年にわたる旅へ出かけよう。
- スポット数
- 3箇所
- 移動距離(概算)
- 約2.3km
- スタート地点
- 難波宮跡
- ゴール地点
- 大阪商工会議所
難波宮跡
大阪府大阪市中央区法円坂1丁目
大阪城の南に広がる史跡公園。飛鳥・奈良時代の宮殿跡が保存されており、復元された大極殿の基壇や柱の跡を実際に見ることができる。園内には解説板も設置され、古代の宮都の広がりを体感できる。
旅の始まりは、難波宮跡。飛鳥時代、この地に置かれた難波宮は、遣隋使・遣唐使を送り出す外交の窓口として栄えた。大阪が「人・物・文化の集まる街」になった、その原点をたどってみよう。
難波宮と外交の都
645年の大化改新の後、孝徳天皇は都を難波に移し、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)を造営した。難波の地は古くから瀬戸内海と大和を結ぶ港として機能しており、遣隋使・遣唐使もここから海を渡った。奈良時代には聖武天皇によって再び難波宮が置かれ(後期難波宮)、都が置かれるたびに人・物・文化が集まる国際交流の拠点として大阪の礎を築いた。
登場人物: 孝徳天皇
次は大阪城へ — 徒歩約11分(目安)
大阪城
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
豊臣秀吉が築き、徳川時代に再建された天守閣がそびえる大阪のシンボル。現在の天守閣は1931年に再建されたもので、内部は歴史博物館として公開されている。周囲の広大な公園には石垣や堀が残り、当時の城郭の規模を今に伝えている。
難波宮跡を離れ、大阪城へ。豊臣秀吉はこの地に本拠を構えると、諸国から商人・職人を呼び寄せ、一代で日本最大級の城下町を築き上げた。
大阪城と城下町の誕生
1583年、豊臣秀吉は本能寺の変で倒れた織田信長の後を継ぎ、石山本願寺の跡地に大阪城の築城を開始した。秀吉は天下統一の拠点とするため、堺や伏見など各地から商人・職人を大阪へ移住させ、城の周囲に広大な城下町を形成させた。この政策により、大阪は短期間で日本有数の経済都市へと成長し、後の「商人の街」としての性格の土台が築かれた。
登場人物: 豊臣秀吉
次は大阪商工会議所へ — 徒歩約18分(目安)
大阪商工会議所
大阪府大阪市中央区本町橋2-8
明治時代に設立された大阪商工会議所の本部ビル。敷地内には初代会頭・五代友厚の銅像が建てられており、大阪の近代経済史を今に伝えている。現在も大阪の経済団体の中心的な拠点として活動を続けている。
大阪城を離れ、大阪商工会議所へ。秀吉が築いた城下町は、江戸時代に「天下の台所」と呼ばれる一大商業都市へと発展する。その商人の街を、明治の近代産業都市へと導いたのが五代友厚である。
天下の台所から近代商都へ
江戸時代、大阪は諸藩の蔵屋敷が集まり、堂島の米市場を中心に全国の物資が集散する「天下の台所」と呼ばれる商業都市として栄えた。しかし明治維新後、藩という仕組みが消滅すると、大阪経済は一時深刻な停滞に陥る。この危機に立ち上がったのが、薩摩藩出身の実業家・五代友厚である。五代は大阪の商人たちと共に1878年に大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)を設立し、初代会頭に就任した。大阪株式取引所の設立にも関わり、金融・産業の両面から大阪経済の近代化を主導したことから、「大阪経済の父」と呼ばれている。
登場人物: 五代友厚
大阪という街は、こうして形づくられた。
難波宮から大阪城、そして大阪商工会議所へ。外交の都、天下人の城下町、近代商都への歩みをたどることで、大阪という街がどのように形づくられてきたのかが見えてくる。
- 世界とつながる港市 難波宮跡
- 商人を集めた天下人 大阪城
- 商都から近代都市へ 大阪商工会議所
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