上田城、二度の大軍撃退
歴史事件
それから約400年、同じ信州で、再び大軍を相手にする武将が現れる。真田昌幸である。1583年、昌幸は千曲川とその支流が作る河岸段丘の突端に上田城を築いた。南は千曲川沿いの断崖・尼ヶ淵が天然の堀となり、北と西は矢出沢川が外堀の役目を果たす。大掛かりな普請をせずとも、地形そのものが城を守る要害だった。 その守りが最初に試されたのが、1585年の第一次上田合戦である。徳川方は鳥居元忠らが率いる約7,000の兵で北国街道から上田へ進軍したのに対し、上田城を守る真田方は約2,000と伝わる。数のうえでは徳川方が圧倒的に有利だった。だが昌幸は、徳川軍が神川を渡ったところで奇襲をかけ、あえて退くふりをして城下町へ誘い込んだ。城下に火を放ち、周辺の百姓にまで旗を立てさせて大軍に囲まれたと錯覚させたため、徳川軍は混乱に陥って撤退。退却の途中、真田方の別働隊に側面を突かれ、増水した神川に追い落とされる者も出た。城だけでなく、城下町・河川・周辺の地形までを戦場として使い切った戦いだったといえる。 この経験は偶然ではなかったことが、15年後の1600年、第二次上田合戦で証明される。関ヶ原の戦いに際し、昌幸は東軍についた長男・信之と袂を分かち、自身と次男・信繁(のちの真田幸村)は西軍として上田城に立てこもった。徳川秀忠率いる大軍を城下深くまで引き寄せて集中攻撃を浴びせ、約5日間にわたり足止めする。この足止めが響き、秀忠軍は天候の悪化も重なって関ヶ原の本戦(同年9月15日)に間に合わなかった。上田城での5日間が、天下分け目の戦いの結果そのものを左右したとまでは断定できないが、少なくとも徳川方にとって無視できない痛手になったことは確かである。
登場人物
真田昌幸
見るスポット
上田城
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