海の向こうから、そして海の向こうへ
九州北部を巡る旅
1000年前、海の向こうから略奪を目的とした武装集団がやってきた。250年後、今度は巨大帝国の軍隊が海を越えてきた。そしてさらに300年後、今度は日本から大軍が海を越えていった。 九州北部は、日本の西の果てであると同時に、海の向こうの世界にもっとも近い場所でもある。この土地は1000年以上にわたり、海を越えてやってくる脅威と、海の向こうへ向かう野心の両方を、最前線で受け止め続けてきた。 太宰府、生の松原、名護屋城。福岡から佐賀へと車を走らせ、この3つの場所を巡ると、1019年の刀伊の入寇から、1274・1281年の元寇、そして1592年以降の朝鮮出兵まで、九州北部が歩んできた1000年の歴史を一本の旅として体験できる。
- スポット数
- 3箇所
- 移動距離(概算)
- 約73.3km
- スタート地点
- 太宰府天満宮
- ゴール地点
- 名護屋城跡
太宰府天満宮
福岡県太宰府市宰府4丁目7-1
学問の神様・菅原道真を祀り、年間を通じて多くの参拝客で賑わう神社。少し足を延ばせば、平安時代に九州の行政・外交・防衛を担った大宰府政庁の跡地があり、「特別史跡 大宰府跡」の碑と史跡公園が、かつてこの地に置かれた大宰府の姿を静かに伝えている。
旅の始まりは、太宰府。参道に土産物店が並び、多くの参拝客で賑わうこの場所は、平安時代には「大宰府」と呼ばれ、九州全体の行政・外交・防衛を司る西の要だった。1019年、この地に一つの急報が届く。海の向こうから、見慣れない武装集団が対馬・壱岐を襲い、九州北部へと迫っていた。
刀伊の入寇――海の向こうから来た武装集団
1019年(寛仁3年)、「刀伊(とい)」と呼ばれた武装集団が、対馬・壱岐へ相次いで襲来した。刀伊は女真系の人々を中心としていたと考えられているが、集団全体の構成については複雑な部分があり、詳細はなお研究が続いている。対馬・壱岐では多くの島民が殺害され、家畜や作物が奪われ、多数の人々が拉致された。刀伊はその後、博多湾方面まで進出し、九州北部の沿岸を襲撃した。この事件は日本の征服や恒久的な占領を目的としたものではなく、略奪と拉致を主な目的とした襲撃だったと考えられている。しかし九州にとっては、これまで経験したことのない規模の脅威だった。急を聞いた大宰府では、権帥(ごんのそち)として赴任していた藤原隆家が中心となり、九州各地の武士団に招集をかけて迎撃態勢を整えた。隆家自身は元々中央政界で活躍した公家だったが、九州赴任後は現地の武士たちをまとめ上げ、刀伊を九州から撃退することに成功する。大宰府という行政拠点があったからこそ、九州は海の向こうからの急襲に組織的に対応することができた。
登場人物: 藤原隆家
次は生の松原元寇防塁へ — 少し距離があります(直線距離約23.3km)。電車やバスの利用がおすすめです
生の松原元寇防塁
福岡県福岡市西区生の松原
玄界灘に面した白砂青松の海岸。松林の中には「特別史跡 生の松原 元寇防塁」の碑が立ち、海岸沿いには石を積み上げた防塁の遺構が今も残る。松の木々の間から海を望むと、700年以上前にこの海の向こうから元軍が迫った歴史を感じられる。
太宰府を離れ、車を走らせること約45分。次に向かうのは、博多湾の西、生の松原。『Ghost of Tsushima』というゲームをきっかけに、対馬と元寇の歴史に興味を持った人も少なくないだろう。あの物語は対馬から始まったが、元軍が実際に目指したのは、その先にある博多湾だった。松林の向こうに広がる海を見ながら、対馬からさらに南へ、歴史を追いかけてみよう。
元寇――帝国の軍隊が海を越えてきた
刀伊の入寇から250年余りが過ぎた1274年(文永11年)、日本は刀伊の入寇とはまったく規模の異なる脅威に直面する。ユーラシア大陸の大部分を支配下に置いたモンゴル帝国(元)が、高麗の軍勢も動員し、日本への遠征を開始したのである(文永の役)。元軍は対馬・壱岐を制圧した後、博多湾へ迫り、九州の武士団と激しい戦闘を繰り広げた末に撤退した。元はその後も日本への服属を求め続け、1281年(弘安4年)、前回をはるかに上回る規模の大軍を再び日本へ差し向けた(弘安の役)。この間、鎌倉幕府と九州の武士たちは、博多湾沿岸に石を積み上げた防塁(石築地)を築き、上陸を防ぐ備えを固めていた。生の松原に今も残る元寇防塁は、その一部である。弘安の役では、この防塁によって元軍の上陸が大きく阻まれ、長期間の海上での対陣を強いられた末、暴風雨などの影響もあって元軍は退却した。刀伊の入寇が九州単独の防衛戦だったのに対し、元寇は鎌倉幕府という日本全体を巻き込む国家的な防衛戦となった。
登場人物: 北条時宗
次は名護屋城跡へ — 少し距離があります(直線距離約50.0km)。電車やバスの利用がおすすめです
名護屋城跡
佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
玄界灘を望む高台に築かれた城跡。「特別史跡 名護屋城跡」の碑や案内板とともに、往時の規模を物語る壮大な石垣が随所に残る。木々の間から見える海の先には、かつて大軍が渡っていった朝鮮半島が広がっている。
生の松原を離れ、車で佐賀県唐津市へ。約84分の道のりの先にあるのは、名護屋城跡。ここで、これまでの歴史の向きが反転する。刀伊の入寇も元寇も、海の向こうから日本へ迫ってきた脅威だった。しかし1592年以降、今度は日本から海の向こうへ、大軍が渡っていくことになる。その最前線基地となったのが、この名護屋城だった。
朝鮮出兵――今度は日本から海を越えた
元寇から300年余りが過ぎた1590年、豊臣秀吉は北条氏を降し、全国統一を成し遂げた。天下人となった秀吉は、次に明(みん、当時の中国王朝)の征服を構想し、その足がかりとして朝鮮半島への出兵を決定する。1592年(文禄元年)、出兵の拠点として、玄界灘に面したこの地に築かれたのが名護屋城である。名護屋城は完成当時、大阪城に次ぐ規模を誇ったとも言われ、周辺には全国から集まった大名たちの陣屋が100以上築かれ、一帯は一時期、数十万人が滞在する巨大な城下町のような様相を呈したと伝えられる。ここから朝鮮半島へ向け、大軍が海を渡った(文禄の役)。戦況が膠着すると一時休戦・交渉が行われたが、交渉が決裂すると1597年(慶長2年)に再び出兵が行われ(慶長の役)、1598年の秀吉の死をもって日本軍は撤退した。刀伊の入寇、元寇と、二度にわたって海の向こうからの脅威を退けてきた九州北部は、この時、今度は自ら海を越えていく大軍の出発点となったのである。現在、名護屋城跡には天守台をはじめとする石垣が残り、玄界灘を望む高台からは、かつて大軍が渡っていった、その海を今も眺めることができる。
登場人物: 豊臣秀吉
海の向こうから来た1000年、そして海の向こうへ行った300年。
刀伊、そしてモンゴル帝国という海の向こうからの脅威を二度退けた九州北部は、300年後、豊臣秀吉のもとで今度は自ら海を越えていく大軍の拠点になった。太宰府、生の松原、名護屋城を実際に巡ることで、その歴史の向きが反転する瞬間を体感できる。
- 1000年前、海の向こうから武装集団がやってきた 太宰府天満宮
- 250年後、今度は巨大帝国の軍隊が海を越えてきた 生の松原元寇防塁
- さらに300年後、今度は日本から大軍が海を越えていった 名護屋城跡
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