伊作城に生まれ、関ヶ原を駆け抜けた男
人物史
天文4年(1535年)、島津義弘はこの伊作城で、島津家15代当主・貴久の次男として生まれた。主郭「亀丸城」に残る誕生石は、義弘だけでなく、兄の義久、弟の歳久・家久、島津四兄弟全員の生誕を伝える。この四兄弟が力を合わせて戦国期の九州統一戦を戦い抜いたことが、後の島津家の基盤になった。 義弘の名が最も広く知られるのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いだろう。この戦いに島津家として参戦したのは義弘で、本家当主である兄・義久は参加していない。西軍に属したものの他の西軍諸将との連携はうまくいかず、島津勢はほとんど戦わないまま、戦況は東軍優勢で決した。 ここから起きたのが、のちに「島津の退き口」と呼ばれる撤退である。戦場に取り残された島津勢にとって定石は、戦線の後方、つまり敵から離れる方向へ退くことだった。しかし義弘が選んだのは、徳川家康の本陣に向かって敵中を正面から突っ切るという、前代未聞の退路だった。兵力や生還者の数は史料によって幅があり(布陣時1,000〜1,500人程度、生還者はおよそ80人という記録もあるが、いずれも確定した数字ではなく諸説あることに注意したい)、正確な実数は分かっていない。それでも、圧倒的な不利の中で後退ではなく前進を選んだという判断の異様さは、記録に共通している。 この退却では、義弘の甥にあたる島津豊久や、家臣の長寿院盛淳らが、追撃する敵を迎え撃つためにその場に踏みとどまり、命を落とした。身代わりとなって主君を逃がすこの戦法は「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる。多くの家臣の犠牲のうえに、義弘は薩摩への帰還を果たした。 西軍についた島津家は、本来なら改易(取り潰し)されてもおかしくない立場にあった。それでも家は存続した。本家当主・義久が直接参戦していなかったという立場、京や江戸から遠く離れた地理的条件、そして戦後の粘り強い交渉など、複数の要因が重なった結果とされる。この「負けても家を残す」という結果もまた、義弘一人の武勇だけでは語れない、島津家としての判断力の表れだったといえるだろう。
登場人物
島津義弘
見るスポット
伊作城跡
見る旅の物語