箱根の山
頼朝が敗れ、早雲が越え、秀吉が見下ろした峠
箱根は、電車や車ならものの数十分で越えられる。だが、かつてこの山は、そう簡単に越えられる場所ではなかった。険しい山を越えた先には相模・小田原があり、東海道が通る交通の要衝でもあった。そしてこの山をめぐっては、のちに日本の歴史を大きく動かすことになる男たちが、そこで敗れ、そこに逃げ、そこを越えていった。源頼朝は、この山で敗走の身をひそめた。北条早雲は、この山の向こうにある小田原へと進出した。豊臣秀吉は、天下統一の最後の総仕上げとして、この山を越えていった。箱根はただの景勝地ではない。歴史が動いた峠を、実際に歩いてたどってみよう。
- スポット数
- 5箇所
- 移動距離(概算)
- 約26.2km
- スタート地点
- 石橋山古戦場
- ゴール地点
- 石垣山一夜城
石橋山古戦場
神奈川県小田原市石橋
1180年、源頼朝が平氏方に大敗した古戦場。現在は「石橋山古戦場」の碑が立つ静かな高台になっている。国道135号沿い、真鶴・湯河原方面へ抜ける道筋にあり、頼朝が敗走した方角を今も体感できる。
旅の始まりは、箱根そのものではなく、その手前の石橋山から。ここで源頼朝は、平氏方に大敗を喫した。まだ何者でもなかった頼朝が、命からがら山へ逃げ込んだ、その最初の一歩をたどる。
石橋山の戦い―頼朝、大敗す
1180年8月、伊豆で兵を挙げたばかりの源頼朝は、わずか300騎ほどを率いて相模国石橋山に陣を敷いた。頼りにしていた三浦一族の援軍は、大雨で増水した川に阻まれて合流できず、頼朝勢は平氏方の大庭景親・伊東祐親の大軍に前後を挟まれる形になった。結果は歴史に残る大敗。頼朝はわずかな供とともに山中へ逃げ込むしかなかった。この時の頼朝は、まだ鎌倉幕府の将軍でも何でもない、ただの敗残の将にすぎなかった。
登場人物: 源頼朝
次は箱根神社へ — 少し距離があります(直線距離約10.6km)。電車やバスの利用がおすすめです
箱根神社
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1
芦ノ湖畔に立つ古社で、湖に浮かぶ朱の鳥居で知られる。杉並木の参道を上って本殿へ向かう。石橋山で敗れた頼朝を匿ったと伝わる社であり、鎌倉幕府の時代には歴代将軍が参詣する「二所詣」の一社として篤い崇敬を集めた。
石橋山を離れ、頼朝が逃げ込んだ箱根山中、箱根神社へ。ここで匿われた頼朝は、この後真鶴から安房へ渡り、東国武士団を率いて再起していく。敗走の山が、後の鎌倉幕府にとって特別な聖地になっていく、その始まりの場所である。
箱根権現に匿われた敗将、そして二所詣へ
石橋山で敗れた頼朝主従は、土肥の椙山から箱根山中へと逃げ込んだ。鎌倉幕府自身の記録『吾妻鏡』は、この時、箱根権現(現在の箱根神社)の別当・行実が頼朝をかくまい、追っ手をやり過ごす手助けをしたと伝える。頼朝はその後、真鶴から海路で安房国へ逃れ、そこから再起の兵を挙げていった。この山が後の鎌倉幕府にとってどんな意味を持ったかは、その後の出来事がよく示している。鎌倉幕府が成立すると、歴代将軍は箱根権現と伊豆山権現の二社に参詣する『二所詣』を年中行事として続けた。敗走の途中で助けられた山への感謝が、幕府の公式行事にまでなったのである。
登場人物: 源頼朝
次は早雲寺へ — 少し距離があります(直線距離約7.6km)。電車やバスの利用がおすすめです
早雲寺
神奈川県箱根町湯本405
箱根湯本の温泉街を見下ろす高台にある臨済宗の古刹。北条早雲の遺言により、子の氏綱が1521年に建立した。境内には北条五代の墓が並び、後北条氏の歴史を今に伝える。1590年の小田原攻めでは豊臣秀吉軍の本陣が置かれ、そのため戦火に遭った。
頼朝の時代から300年余り。今度は箱根の向こう側、小田原を目指す男が現れる。北条早雲である。早雲寺へ向かい、彼が箱根を越えて築いた後北条氏5代の歴史の起点をたどる。
伊勢宗瑞、箱根の向こうの小田原へ
頼朝の時代から300年余りが過ぎた戦国時代の初め、伊勢盛時、のちの北条早雲と呼ばれる武将が現れる。もとは今川氏の家督争いに介入した縁で駿河国の興国寺城を与えられた一介の客将だったが、やがて伊豆国を平定し、相模国小田原への進出を図った。小田原には大森藤頼が城を構えていたが、明応年間(1495年前後、正確な年次には研究者の間で異説がある)、宗瑞はこの城を手に入れる。「進物を贈って気を許させ、鹿狩りを口実に山へ兵を入れて奇襲した」という有名な逸話が伝わるが、これは後世にまとめられた話であり、実際には大森氏内部の混乱に乗じた進出だったとする見方も研究者の間にある。いずれにせよ確かなのは、箱根の山塊を越えたこの小田原こそが、以後5代・約100年にわたって関東に覇を唱える後北条氏の本拠になったという事実である。早雲自身の墓と、後を継いだ氏綱・氏康・氏政・氏直、五代の墓が並ぶのが、この早雲寺である。
登場人物: 北条早雲
次は小田原城へ — 少し距離があります(直線距離約5.1km)。電車やバスの利用がおすすめです
小田原城
神奈川県小田原市城内6-1
早雲が大森氏から奪って以来、後北条氏5代の本拠となった名城。上杉謙信・武田信玄の攻撃にも耐えた「難攻不落」の城として知られたが、1590年、秀吉の大軍に包囲され、約3ヶ月の籠城の末に開城した。現在の天守閣は昭和期の復興で、内部は資料館になっている。
早雲寺を離れ、後北条氏5代の本拠・小田原城へ。上杉謙信も武田信玄も跳ね返した堅城に、今度はすでに天下人となった豊臣秀吉が箱根を越えて迫ってくる。
難攻不落の城、そして天下人との対決
早雲が奪ったこの小田原城は、子の氏綱、孫の氏康の代に大きく拡張され、関東随一の堅城となった。上杉謙信や武田信玄という戦国最強クラスの武将たちの猛攻をも跳ね返し、「難攻不落」の評判をほしいままにする。しかし1590年、状況は一変する。すでに四国・九州を平定し、事実上の天下人となっていた豊臣秀吉が、最後まで臣従を拒む後北条氏(氏政・氏直父子)を屈服させるため、20万ともいわれる大軍を率いて箱根を越えてきたのである。約3ヶ月にわたる籠城の末、小田原城はほとんど戦わずして開城し、後北条氏は5代・約100年の歴史に幕を下ろした。秀吉にとってこの小田原攻めは、天下人になるための戦いではない。すでに天下人となった秀吉が、日本統一という仕事の最後のピースをはめる戦いだった。
次は石垣山一夜城へ — 少し距離があります(直線距離約2.9km)。電車やバスの利用がおすすめです
石垣山一夜城
神奈川県小田原市早川
秀吉が小田原攻めの本陣として築いた城跡。標高257mの尾根から、小田原の市街とその先の相模湾までが一望できる。「一夜城」の名の通り一夜で完成したわけではなく、実際には約4万人を動員し、約80日をかけて築かれた総石垣の城だった。
小田原城を離れ、対岸の石垣山一夜城へ。秀吉がここに築いた城から見下ろされ、後北条氏は降伏した。箱根の山をめぐる物語は、この見晴らしの先で、天下統一というひとつの結末を迎える。
石垣山一夜城―見下ろされた籠城戦
小田原城を囲んだ秀吉は、対岸の笠懸山に本陣となる城を築かせた。約4万人を動員し、80日をかけて築いたこの城は、周囲の木々を完成まで意図的に残しておき、完成と同時に一斉に伐採したと伝わる。城中の北条方からは、まるで一夜のうちに山の上に城が出現したように見えたという。これが「石垣山一夜城」という呼び名の由来である。実際には一夜で建てられたわけではないが、それでもこの演出は、後北条氏の戦意を大きく削いだとされる。秀吉はここに淀殿や千利休までも呼び寄せ、茶会を開く余裕すら見せつけた。約10日後、後北条氏は降伏。奥州の平定を残すのみとなった秀吉の天下統一は、この山の上から、事実上の完成へと向かっていった。
登場人物: 豊臣秀吉
箱根は、ただの山ではなかった。
そこで敗れた男が再起し、そこを越えた男が関東を治め、そこを見下ろした男が天下統一を仕上げた。箱根神社から早雲寺、小田原城、石垣山一夜城へ―歩いてたどることで、一つの山をめぐる3つの歴史が、一本の道としてつながって見えてくる。
- 山を越える前に、まず敗れた男 石橋山古戦場
- 敗れた男を匿った山、その先の再起 箱根神社
- 300年後、山の向こうを目指した男 早雲寺
- 難攻不落の城に迫る、天下人の影 小田原城
- 山の上から見下ろされた、後北条氏の最期 石垣山一夜城
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