攻めるに易く、守るに難しき京都
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攻めるに易く、守るに難しき京都

木曽義仲・後醍醐天皇・徳川慶喜――京都を手にした者たちは、なぜ都を去ったのか?

京都は、日本史上もっとも多くの権力者が手に入れようとした都でありながら、そこに居続けることができた者は少ない。木曽義仲は武力で都へ入り、後醍醐天皇は王権を取り戻し、徳川慶喜は歴史的な決断をこの地で下した。だが3人とも、最後には京都を去ることになる。「京都を手に入れること」と「京都を支配し続けること」は、なぜ違うのか。法住寺・天龍寺・二条城、3つの現場を実際に歩きながら、その答えを探る旅へ出かけよう。

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スポット数
3箇所
移動距離(概算)
約15.8km
スタート地点
法住寺
ゴール地点
二条城 二の丸御殿・二の丸庭園
法住寺

法住寺

京都府京都市東山区三十三間堂廻り655

三十三間堂のすぐ隣にひっそりと佇む小さな寺院。境内には「法住寺殿跡」の石碑が立ち、ここがかつて後白河法皇の御所・法住寺殿だったことを伝えている。本堂には「身代わり不動尊」が祀られ、寺伝では法住寺合戦の際に法皇の身代わりとなって矢を受けたと語り継がれている。静かな境内を歩きながら、都のただ中で起きた武力衝突の跡をたどることができる。

旅の始まりは、法住寺。倶利伽羅峠で平氏の大軍を破り、破竹の勢いで京都へ入った木曽義仲だったが、都に留まった軍勢の乱暴が後白河法皇との関係を急速に悪化させる。法皇の御所があったこの地で、義仲は武力による支配の限界と向き合うことになった。

法住寺合戦、都で失った信頼

倶利伽羅峠で平氏の大軍を破った木曽義仲は、1183年に京都へ入る。だが都に留まった義仲の軍勢は略奪や乱暴を繰り返し、後白河法皇や京都の人々の信頼を急速に失っていった。法皇が義仲追討を画策していることを知った義仲は、同年末、みずから法住寺殿を攻めて法皇方を打ち破る(法住寺合戦)。武力では都を制圧できたものの、この一件で義仲は朝廷内でさらに孤立し、鎌倉の源頼朝が送った源義経・源範頼の軍勢に追われる立場となった。倶利伽羅峠での「火牛の計」は義仲の奇策として広く語られるが、これは軍記物語『源平盛衰記』などに記された逸話であり、史実として確定しているわけではない点には注意したい。

登場人物: 木曽義仲

次は天龍寺 多宝殿へ — 少し距離があります(直線距離約9.2km)。電車やバスの利用がおすすめです

天龍寺 多宝殿

天龍寺 多宝殿

京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68

世界遺産・天龍寺の一角、多宝殿へと続く渡り廊下。天龍寺は、対立の末に亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が禅僧・夢窓疎石の勧めで建立した寺である。多宝殿には後醍醐天皇の尊像が祀られ、今もその霊を慰め続けている。現在の多宝殿は1934年(昭和9年)に再建されたもので、後醍醐天皇の時代の建物がそのまま残っているわけではないが、渡り廊下を歩いて向かう先に、敵として戦った尊氏がその魂を弔った場所がある、という事実は変わらない。

法住寺を離れ、天龍寺・多宝殿へ。鎌倉幕府を倒して王権を取り戻した後醍醐天皇だったが、恩賞をめぐる武士たちの不満を抑えきれず、かつての盟友・足利尊氏との戦いに敗れて吉野へと逃れる。皮肉にも、その菩提を弔ったのは敵として戦った尊氏自身だった。

建武の新政と、京都からの退場

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、京都で天皇みずからが政治を行う「建武の新政」を始めた。だが幕府打倒に力を尽くした武士たちへの恩賞は公家が優先され、武士たちの不満は急速に高まっていく。かつての盟友・足利尊氏もやがて後醍醐天皇に反旗を翻し、1336年、天皇は京都での戦いに敗れて都を追われる。大和国吉野へ逃れた後醍醐天皇は、皇位の正統性を主張して独自の朝廷(南朝)を樹立し、京都の北朝と並び立つ南北朝時代が始まった。皮肉にも、その死後、対立した尊氏自身が天皇の菩提を弔うため天龍寺を建立し、多宝殿に尊像を祀っている。

登場人物: 後醍醐天皇

次は二条城 二の丸御殿・二の丸庭園へ — 少し距離があります(直線距離約6.5km)。電車やバスの利用がおすすめです

二条城 二の丸御殿・二の丸庭園

二条城 二の丸御殿・二の丸庭園

京都府京都市中京区二条城町541

江戸幕府の京都における拠点として徳川家康が築いた二条城。現存する二の丸御殿は江戸時代当初の建物がほぼそのまま残る国宝で、1867年、この御殿の大広間で徳川慶喜が大政奉還を表明した。隣接する二の丸庭園も同時代から手を加えられてきた池泉回遊式庭園で、御殿の建物群と庭園を実際に歩くことで、260年余り続いた徳川の世が幕を閉じた、まさにその現場に立つことができる。

天龍寺を離れ、二条城へ。徳川慶喜はこの地で政権を朝廷に返す大政奉還を表明したが、その決断だけでは新政府内の対立は収まらず、鳥羽・伏見の戦いに敗れて京都・大坂を去った。260年余り続いた徳川の世は、この地で幕を閉じた。

大政奉還から鳥羽・伏見の戦いへ

1867年10月、徳川慶喜は二条城の二の丸御殿に諸藩の重臣を集め、政権を朝廷に返上する大政奉還を表明した。これにより260年余り続いた江戸幕府の政治は名目上終わりを告げたが、新政府内での主導権をめぐる対立はむしろ深まっていく。翌1868年1月、京都南郊の鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍が衝突(鳥羽・伏見の戦い)。緒戦で劣勢に陥った慶喜は、大阪城の兵を置いたまま自身は軍艦で密かに江戸へ引き上げてしまう。この戦いを境に、徳川家が京都・大坂を含む畿内を政治的に支配する時代は事実上幕を閉じた。

登場人物: 徳川慶喜

京都を歩くと、去っていった者たちの道が見えてくる。

法住寺で義仲が失った信頼を、天龍寺で後醍醐天皇と尊氏の因縁を、二条城で徳川の世の終わりを見た。3人の時代も立場もまったく違うが、京都という一つの都をめぐる権力の難しさは、いまも現地を歩くことで感じ取れる。

  1. 戦場の天才、都で信頼を失う 法住寺
  2. 王権を取り戻した天皇、そして京都からの逃避行 天龍寺 多宝殿
  3. 最後の将軍が下した決断、そして京都からの撤退 二条城 二の丸御殿・二の丸庭園
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